――イメージをカタチに(・Image)――
index(索引)<concept(概念)<ルネサンスへ<2013-0306-4
それは、たぶん僕の肉体のことを意味している。 僕の肉体が、そうした自分のものではない、 何か異常な感覚を呼び起こしているのである。 これが自分のなかに住む、 もう一人の自分の正体なのである。。 そしてそれは、今となっては忘れられた、 祖先の記憶ではないだろうか。 僕の肉体が、カラダでそれを記憶していたのである。 そして、それがこの肉体のどこかに、何かの断片として保存され、 残されているのではないだろうか? それは、具体的な出来事や、 カタチや場面として記憶されているのではなくして、 この肉体が機能する、感性や感受性として記憶されている。 あるいは、そうした記憶が、 この肉体の「感受性」そのものなのである。 「僕の肉体」とは、このことを意味している。 だから、奇妙な違和感とともに、 何か得体の知れない未知なる部分を、 自分の中に見てしまうのである。 それは、いわば肉体を支え、それをカタチ作る、 化石化された骨格のようなものなのである。 それは、幾世代、何千何万年にも渡って、 蓄積され堆積されて来た、 祖先の記憶が結晶化したのものなのである。 そのカタチや仕組み、機能、役割といったものが、 初めから、そのように仕組まれ設計されている。 あるいは、そのように宿命づけられている。 それは、私達の日々の暮らしの中で生きているだけでなく、 私達自身の肉体の感受性や、感覚の機能に対しても、 やはり、当然のように働いている。 そうした意味で、自己の肉体も感覚器官もまた、 生まれながらにして、条件づけられているのである。 その役割やカタチにおいて。 そして、その感覚の感じ方の範囲や方向、 深度、傾向や方向性においても、そうである。 だとすれば、 私たちが日々の日常において、 見たり聞いたり感じたりするすべてにおいて、 何か言い知れぬ、訳みたいなものがあって当然ではないだろうか? 僕の肉体の中で、それが生きているのではないだろうか。 連綿と受け継がれて来た、祖先の「魂」として。 それは、自分が生きて暮らしている理由みたいなものなのである。 私達は、ただそれを感じないか、忘れてしまったのである。 |