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群れの、③ 原理。

バレさえしなければ、なにをやってもよい。そう思えてくるは、
相手が「群れ」から排除された弱い、存在だからである。
自分だけでは抵抗できないし、報復する実力も能力もない。
組織も権力も持っていない。つまり、だれからも見捨てられた、
群れからのはぐれ者である。だから、なにをやってもバレない。

そのような悪魔のささやきに惑わされるのは、自分で、
自分の心を問うことがないからである。してはいけないと、
だれか偉い人から言われて、そうしているだけで、
自分自身が本当にそう思っているのではないのである。
ここに、根本的な勘違いがある。自分は、ただ、
そのように思わされているだけなのであって、それが、
本当の自分の考えではないということが、気づかないのである。
考えたこともないし、それ以前に、そうした発想そのものがない。
そうした、自己意識が芽生えるということもない。

それどころか、このような自己意識は、
それ自体が何か悪いことのように思われている。
日本人の感覚からいうと、
自分自身よりも、周りの集団の合意がなによりも優先される。
ひとことでいうと、「集団の和」だけである。自分自身とか、
個という概念は、このような日本の原理に反することなのである。

だからまた、自分の考えというのが、いつも簡単に変わる。
いさぎよいというか、あざやかというか、無節操というか、
迎合する傾向が著しい。迎合しない場合でも、
それに対抗して自立するということがなく、むしろ反対に、
ゴネて、食い下がって、まとわりつくことによって、
自分を守ろうとする。

考えが簡単に変わるのは、もともと自分の考えというのが、
ないからである。むしろ、あってはならないと考えられている。
社会に分裂をもたらすからである。災いと、
厄介のタネでしかないのである。ということは、
そしてまた、公の集団の群れからはずれたところでは、
なにをやってもよい、という意識が芽生えてくる。
日本という社会の、外の世界に対してである。
この「外」というのが、先の方で述べた、いわゆる、
群れから意図的に排除され続ける人々の世界である。

 戻る。                     続く。

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