( 市)ルネサンスへ<2016-0311 まぶしい、
~2:限界線。
まぶしくて何も見えないというは、他の言い方をすれば、 見てはならないもの、見えないもの、あるのに見ていないもの、 あるいは、目にとって都合が悪いので、意図的に見ようとしない ものである。それとか、見たくないものもある。 そして、それはまた、越えてはならない限界、 境界とでもいったものである。それは同時にまた、 他の言い方をすれば、見なければならないもの、 見えていなければならないもの、 見ようとしなければならないものでもある。 それは境界、制約、条件とでもいったもので、 人間の目というのが、はじめから元々そのように仕組まれ、 設定され、プログラムされている、目の「機能」といったものである。 しかし、それを超えるというのは、目という感覚の領域を超えた、 外の、別の感じ方である。越えてはならない一線を超えるのである。 それはつまり、目という感覚の感じ方の範囲であり、深さであり、 そしてまた制約と限界を示している。 それが限界とするところは、つまり、視覚の限界線とか境界線といった もの、区切り線とかいったものである。つまりそれが、視覚という感じ方 の領域とカタチを示しているのである。そしてこの境界線上に位置する のが、眩(マブ)しくて何も見えなくなる状態なのである。 だからこのとき見ているのは、視覚であって視覚でないもの。 視覚が、視覚を見ているのである。 視覚が、視覚自身のシステムとその限界線を見ているのである。 そして、その実体は何かと言えば、それは視覚自身の記憶としか 言いようがないのである。 それは、本来の記憶にない記憶。感覚が意識を無視して、 感覚それ自体で記憶している記憶。 意識から離れて、意識とは独立して、 意識とは別のところで記憶された、 肉体それ自身の生理や機能としての記憶である。 それは本来、見えるはずのないもの、 見てはならないもの、見る必要のないもの、 見えてはならないもの、としてのそれである。 戻る。 続く。 |