( 市)ルネサンスへ<2016-0429 風土、
~7:風土。
それは中世末期の、ヨーロッパの君主制とも本質的に異なる。 君主制の下での国家機構は、それが君主(帝:ミカド)とは独立した 存在であり、場合によっては君主と対立し、あるいは君主を倒す 事もある。国家の機構自体がそうした機能と役割を有している。 またそうした特徴が、近代国家、あるいは自由や人格の意識と 直接につながっている。しかし、これが東アジア世界には無い。 飛行機に乗り、洋服を着て、ジャズを聴いていても、 脳ミソの中には自己意識、ないし、自分の考えというのが無く、 いつでも、どこでも、なにをしていても、権威という他人にしがみつく ことだけを考えている。それ以外の生き方を知らない。だからまた、 本当の意味での自由も、人権も、人格もあり得ないし、知らない。 知ってはならないし、知る必要のない世界に生きている。 西洋のシステムや、文化・思想が支配していても、脳ミソの中は、 やはり東アジア的なのである。様式と構造の上では、 そして形式的にも完璧な自由主義なのであるが、 実体を支配しているのは、やはり、コネと談合なのである。 もしかすると、儒教という思想以前の、風土という、 情緒的な必然性がそれを求めているものかも知れない。 戻る。 続く。 |