( 市)ルネサンスへ<2016-0527 カスミの風景、
~3:根源的なもの。
根源的なものに五感の区別などなく、それらは本来、同じものが、 それぞれ違うものとして感じられているのである。同じものを、 異なる側面、違った視点、様々な角度から感じているに過ぎない のである。本来それらは感覚の感じ方といったものなのである。 それらはたいてい他の感覚とともにやってくる。 たとえば、空気の色とニオイ。おだやかで優しげな春の空気の肌ざわり といったもの。生まれたばかりの小鳥のさえずりなどもそうだ。それらは たいてい、いっしょにセットでやってくる。にもかかわらず、それらが別々に 孤立してやって来るところに、誤解の源(みなもと)がある。 スピーカーがそうであり、ディスプレイがそうであり、店舗から漂ってくる何か 意図的に作られたウソのニオイがそうである。 見るもの、聞くもの、触れるもの、それは自分が感じる、自分が生きて いる証拠なのであるが、そうした感覚が、偽りの作りものの感覚として、 おカネで求めやすくなっている。とっても便利なのであるが、もっとも 大事なことがより一層、見えにくくなっている。イヤ、見てはならない ように出来ている。それは、おカネで買えないものだから、それに 気づくと面白くないのである。 戻る。 続く。 |