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つまり、キリスト教世界は、そうした意味で内省的なのであって、自分自身に対して自律しているのである。反対に、儒教世界では、「おどろき」というのが自分自身に向けられることがない。 そもそも「自分自身」という概念自体が非常に曖昧なのである。自分と自分たちの区別が限りなく曖昧なのである。どこまで行っても、自分自身というのが自覚されることがないのである。 すなわち、自分の中で自分が区別されることがないのである。自分が自分に対立することがないのである。それは「おどろき」という感情の表出においても同様であって、自分と自分たちが、直接的で同時的関係でもって終始し完結しているのである。そうした、集団の中で個人が理没した世界である。 |
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