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すなわち、他の言い方をすると、自分の中で自分が分裂していて、そしてその分裂を通してそとの世界を見るといったことがないのである。分裂した自意識の中で意識が自律し、そして自分が自分を意識し、自分が自分を見ているのである。 このような、一見(いっけん)ワケのわからない、無意味に見える自己内探求、無限追及といったものは、東アジア社会では見られない。 たしかに東洋人も自己を省(かえり)みるということがあるが、それはあくまでも、またどこまで行っても、他人との関係で自分を見ているのであって、自分で自分を省みる、といったことがないのである。 社会と他者から切断された、閉じた自分だけの世界の中で、自分で自分に悩むといったことがないのである。そうしたバカげたことは、東アジア社会の人間は、誰もしないのである。 |
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