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4、人権。


そして、このような生活のパターンを納得させる根拠として、儒教的な上下の身分関係がどうしても必要とされたのである。だからまたそれは、閉じた変化のない世界を前提にしたものであって、従ってまた、そうでない者、よそ者、外の人といった自分たちでない者を迫害し排除しようとするのである。

自分という個人が、「自分たち」という集団から自律するということがないのである。むしろそれはしてはならないこと、許してもならない「悪」として受け止められているのである。そうである限り、人権という意識は理解されることがなく、むしろワケの分からない煩(わずら)わしく、災いのタネにしか見られないのである。

そしてそれは今日においてもすがたカタチを変えて、会社や地域や学校などの同一性からくる仲間意識として現れている。仲間として群れて団結する傾向を示すのである。そうである限り、個人が個人として自律するということがなく、人権やプライバシーの概念が理解されることもないのである。むしろ、そうした意識が必要とされず、意識されてはならない、そうした世界を生きているのである。


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