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それは、自分自身の姿カタチがそうなのである。そして、そこから制約されてくる肉体の機能と仕組みがそうなのである。私たちは、そのようにしかなれず、そうやって生きて行くしかないのである。そしてまさしく、そうしたことが、自分にとって逆らうことのできない強制力なのであって、そしてまた、自分が自分を意識する場面になっているのである。 自分というのが、そのようにしか成れないという意味でそうなのである。そうした自分に対する制約と限界といったところに、嫌が上にも自分自身というのを感じてしまうのである。それが自分であり、それだけが自分であり、そのようにしかなれず、また、ただそれだけが自分ができることのすべてなのである。 自分がそのようにしか成れないというのは、すでに自分というのが、あらかじめ与えられていて、規定されてしまっているからである。なにもかもが、あらかじめそのように仕組まれ、設定されているのである。もちろん、だれかが意図的にそうしたというのではなくて、現実を生きる自然条件と環境といったものが、このように人間を強制していて、また、それしか出来ないように出来ているということなのである。 |
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