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あるいは、このような欧米の価値観とは異なる基準が、他にもあるのかも知れないのである。それは東洋が――少なくとも日本が――いまだ完全には欧米化していないからであって、もしも完全に欧米を超えてしまったときに、嫌が上にも自分を問い始めざるを得なくなるのである。 自分は果たしてだれで、何をしようとしているのかと。問わずに居られなくなるのである。要は、私たちが無意識に前提にしている、このような価値観の基準について、もう一度疑ってみる必要があるのではないか、ということである。歴史が違えば、それが前提にする条件も、背景も違ってくるのである。 東洋、そして特に日本には(もちろん、韓国や中国もそうであるが)、欧米とは別の意味で異質な、いまだ未知の可能性があって、私たちは、それを蔑(ないがし)ろにして、忘れて、見失っているのではないか、ということである。 私たちは、ただ目の前の自分たちの利害にとらわれて、過去の欧米的な価値観から離れられずにいるのである。そしてこれは深刻なことであって、この「見失っている」というのは、実は自分自身の「自己の同一性」を喪失している、という意味なのである。 |
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