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そうしたことが他人を通して伝わってくる、ということなのである。心情的なものとして、それが自分の中で共振し、コダマし、拡がってゆくのである。耐えられなくなって、自分もまたそうした方向へと共鳴し、共感し、そしてそれが共有されてゆくのである。 それは、自分で自分の感覚を見ているのである。そしてそれが自分にも感じられるというのは、自分もまた、それと同じものが自分の中にあるからに他ならないのである。もしも自分の中に、そうした何かが無いとすれば、当然、それを「感じる」ということがないのである。 つまり、それは自分で自分の感覚を見ているのであって、それを外からの刺激を通して感じ取っているのである。従ってまた、もしもそれを知ることが出来るとすれば、それは自分の中で見つけるしかないものなのである。 |
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