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これにくらべれば、なにかを見て触れて感じるときの、自分を意識するのは簡単である。この場合、相手にしているのは自分だけであって、不確定要素の他人は入って来ないからである。自分だけの閉じた世界の中で、自分と向き合っているのである。 しかし、この場合でも意識というのが、自己の内部で分裂していなければならない。分裂しているからこそ、それが自分のこととして意識されているのである。自分という概念自体が、このような自分の自分に対する意識なのである。キリスト教で言うところの主の存在、神に対する意識、あるいは自己意識とはこのことなのである。 しかしまたそこから、自分が自分に対する意識、純粋科学といったものが発達したのである。というよりも、発達せざるを得なかったのである。精神は、そうやって自己と向き合わなければならなかったのである。これは必然だったのである。 このような、自己意識に苛(さいな)まれ呪われている人間は、そこに留まり続けることは不可能であり、それは自分にとっての死を意味する。だから自分が、自分の存在というのが生き続けるためには、そこから出て行かざるを得ないのである。 |
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