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どこかで感じ合い、心のどこかで触れ合っているのである。触れて、感じて共有しようとしているのである。なぜなら、人間というのがもともとそうだからである。人間というのが、同じ種のシステムを共有しているからである。また、共有しているからこそ、それが同じ「種」であると言えるのである。 しかしまたそうである以上、その限りで、お互いそれぞれが、もともとバラバラなのであって、それぞれが個々別々に自分の都合で相手を見ている。だからまた、それぞれが相手に対して偏向し偏執的にならざるを得ない。 そうした意味で、それぞれにとっての相手、そしてまた、自分自身に対する見かた、見え方、感じ方といったものは、主観的な偏見にならざるを得ない。そうしてこのような主観的な偏見が無数に集まって平準化され、そしてそれを一つの全体として見た場合、これが客観性であり、そしてまたその限りで、それが同じ「種」として見られているのである。 |
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2019-0101-0104