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3、選択される錯覚。


いずれにしても、見て触れて感じる、自分の外の現実世界のすべてが、自分にとって何かしらの意味を持つとすれば、それはやはり主観としか言いようがないのである。世界とは、自分が関係してきたことのすべてなのである。その限りにおいて、それが自分にとって何かしらの意味を持っているのである。

記憶や印象は何らかの錯覚に過ぎないのである。なぜならそれは、自分が頭の中で記号化した、主観的な現実世界の再現に過ぎないからである。

そしてこの錯覚が、なぜ現実と言えるかというと、
このような個人的な錯覚といったものが、社会的な交感と交流の中で、それが求める必要に従って選択されていって、無意味で不要なものが失われてゆくからである。

戻る。             続く。

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2019-0402-0404