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そして、そうしたことを自分の身体に求めているのである。身体のカタチとその動き、そして自分でも意識されざる無意識の表情や、仕草と習慣の中に、自分たちが生きている意味を求めているのである。 求めざるを得ず、求めるしかなく、またそれ以外に自分を確かめるものが、どこにもないのである。それは自分の中で探すしかないものなのである。そうだとすると、自分の表情や仕草、習慣といったものが何らかの意味を持たざるを得ず、そしてそれを、自分の中の連想と錯覚の世界に見ているのである。 他の言い方をすると、このような自分の生活や表情、仕草そのものが自分自身なのであり、そうやって自分も納得し、安心もし、理解して行くしかないということである。また、そうして自分に納得しているのである。そして、これが「錯覚している」ということなのである。 |
戻る。 続く。
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2019-0404-0416