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そしてこの限られた範囲でもって自分を表現し、そして了解し、自分が自分であることを認めることになる。そしてこれが自分自身の日常であり、常識であり、自然のありのままの自分のすがたである、と思えてくるのである。そう思わなければならないし、そう思う以外にないということなのである。自分を確かめるものとしては、これ以外に無いのである。 だからまた、ここから言えることは、表情や仕草、あるいは一見なんの意味も、現実的な効果や実践的な目的や効力のない動作が、自分や誰にも極めて頻繁に付きまとってくるけれども、実際のところ、なぜそうなるのか、だれにもよく分からないのである。それの本来の目的が見失われて、いまではそれがただ、表情とコミュニケーションの手段となっているのである。 |
戻る。 続く。
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2019-0406-0408