index< 日誌 < s設定 < 24a-05「意志の誤解2」p8 |
「錯覚」とは、これを客観的に見ると主観そのもので、思い込みや偏執・偏見のことである。そして私たちは、そうした世界を生きている。だからまた、自分にとっての現実は錯覚にならざるを得ないのである。 自己の精神が自(みずか)らを表出するところとしては、すでにある現実の世界にしかないのである。このカタチある現実の世界をもって、精神は自己のカタチを表現せざるを得ないのである。そしてまた、それでもって納得し、理解するしかないのである。 そうして自分に気づき、自分を知る以外にないのである。これは誠に止むにやまれぬ、実に致し方のないことであって、避けることも逃げることも出来ない、そうした自分にとって選択の余地のない現実の世界なのである。 精神は、現実にカタチある物を通してのみ、自らを表わし得るのである。だからまた、やはりそれは錯覚でしかなく、錯覚であるとしか言いようのないのである。 |