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2、取柄(とりえ)


そして、ただそれだけが取柄(とりえ)なのである。そうして生きて行く以外にないのである。だれもがみなそうなのである。自分で自分を生きて行けなくなっているのである。自分で自分を生きたことがないし、またそれが何か非常に悪いことのように思っているのである。

みんなと違うことをしている、ただそれだけで自分が仲間外れにされると信じているのである。実際、ただそれだけで後ろ指と陰口を叩かれて、何かあるたびに悪者扱いにされ懲罰されるのである。

そしてこのような社会では、このようなデッチ上げの「悪者」がどうしても必要なのである。それは、「自分たち」が仲間であることを証明する、標的としての悪者なのであって、そうして始めて多数派の自分たちが仲間であり、そしてこれが正義であることが実感できるのである。自分が自分であり続けることが出来るのである。

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2019-0523-0526

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