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5、カラッポ。


しかし、少し考えて見ると、これは何も表情に限ったことではなくて、写真や映画、小説についてもそのまま言えることであって、中身がカラッポで何もなく、どうでもよいものであって、表面的な体裁と形式だけが過大に拡張されて、それだけがすべてのように思われている。

そして、それが好まれるし求められてもいる。しかし、これでは何も見えないし、見えても来ない。大衆は自分で考えるということを止めてしまったのである。そして、このようなところでは何も生まれない。何か新しいことが始まるということもない。

ただ夢かマボロシのように現れては消えて行くだけである。実体というのがないのである。そして、これが自分なのである。これが自分の自意識になっているのである。自分の生き方や感じ方、考え方がそうなのである。だから何をしていても、どこに居ても、結局のところ自分を見つけることが出来ずにいるのである。

戻る。                続く。

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2019-0618-0624