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9、信仰。


例えるなら、それが中世ならば、人身的で世襲的な上下の人間関係となる。そしてこれが近代であれば、物的な経済合理性が人間関係の基本となっている。そして、これが自分たちの信仰と自意識になっているのである。

そしてこの合理性自体が、限りなく純粋な中心とその集団を目指すものとならざるを得ない。これは合理性自体が持つ指向性なのである。そしてこれが理想なのであり、思考の目標であり、目的なのである。すなわち、単一民族、一国家一民族という考えかたが、そうなのである。

そして、それ以外の者を、劣った二級国民や二級三級民族として蔑み辱めることによって、自らを正当化し、そうして自分の有利な立場を確保し、それを認めさせることによって、それを固定化し維持しているのである。このような差別自体が自らと「自分たち」の存在の条件となっているのである。

このようにして自国民と、自分たち以外の諸民族を差別してゆくのである。差別することによって自分の立場というのが保全されるのである。辱めて陥れてゆくのである。従ってこの差別は、システムにとって必然で必要不可欠のものなのである。そしてこれがこの時代の秩序であり、システムであり、原理なのである。

戻る。                続く。


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2018-0719-0725