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また、殉教とも言わない。本来、自分または自分たちの教義のために死ぬのだから、殉教と表現するのが正しいと思えるのであるが・・・。たとえば、イスラムの自爆攻撃のように。しかし、個人の自由や信条のない世界に教義などあり得ず、それは殉教とは言えないのである。 玉砕は、玉のように潔く砕け散る。散るというのは、桜の花ビラのように誰もが一緒にはかなく死にゆくのである。そして、このように自分から進んで死にゆくのが、はかなくも美しく、そして限りなく尊いことのように思われている。 これは文化なのであって、自分たちの潜在的な自意識の表現なのである。だからまた、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」生きることを余儀なくされるのである。 |