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そうした種々様々に分類される、情緒の様々な態様や心情といったものを現わしてくれさえすれば、それがどんな目的であろうと、動機であろうと、行動であっても良いのである。 そしてまた、どんな現実のカタチでも、表現方法であっても、そんなことはどうでも良いことなのである。情緒は、そうしたことを何ら問うことがないのである。情緒にして見れば、そんなことは情緒と関係のない、預かり知らぬことなのである。 だから例えば最初に心地良い何かを経験したとすると、それ以降は何か心地良いことがあると、それが無意識の内に呼び起こされて、その最初の経験のカタチといったものが、その当初の動機や経験から切り離されて、その表面的なカタチだけで通用するようになる。そして、それが情緒のカタチとして定着して行くのである。 |