index< 日誌 < l見えないもの < 24d-02「錯覚・情緒が求めるもの」p6 |
その表面的な見えるカタチだけが、心地良さの印しの標識として理解されるのである。情緒の表情とポーズが、印象や象徴の目印しとしてサイン化されるのである。 現実の理由や、動機や実用性から切り離されて、それだけで独自の抽象的な意味を持つものとして変換されているのである。すなわち、情緒とその表現手段としての身体は別のものだということである。 他の言い方をすると、精神と肉体は別のものだということである。だからまた、現実のカタチにおいて、情緒自体が移行したり、乗り移ったり、入れ替わったり、あるいはその意味がいつの間にか変化したり、別のものに変異したりするのである。 |