index < 日誌 < as同一性< 「境界線上」p4/ |
境界線上の世界というのは、自分が生きているのか死んでいるのか、そして、これが現実なのか非現実なのか、自分で確かめようとしているのである。自分自身で、自分の精神と肉体で確かめて行くしかないのである。それは、自分自身の意識されざる観念の世界である。 人間は現実世界の中で様々な「色」を見ているのであって、どうでもよいもの、必要のないもの、興味のないもの、関係のない「色」については無視するか忘れてしまう。 あるいは、どうでもよいような、ほとんど影響がないような、そうした些細な色、目立たない、非常に薄い色なのども、そうである。忘れてしまうし、忘れようともする。見えているはずなのに忘れてしまうのである。 それが気にもならず、それが見えているとも感じないのである。あるいは、意味のないことが記憶に残って、神経を消費させたり煩(わずら)わせたりされても困るのである。だからまた、自分から進んで忘れようともする。 そうした、どうでもよい様々で雑多な忘れられ、消えていった「色」があって、そうした、自分の中で失われていった色が、現実に見ている鮮やかで目立つ、気になる色の下地となっているのである。それは無限に蓄積され続けてきた視覚の下地の色なのである。 これが見える気になる色の、無意識の前提になっているのである。背景であり、生地であり、意識せざる色の感じ方となっているのである。そして、この感じ方を基にして、その上で様々なよく見る、気になる色が見えているのである。それは、色の下地なのである。 |