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9、傾向。



自分自身が持つ現実のカタチの意味といったものが理解されてくる。自分を生かし、動かし、現実のものとしている、自分の肉体のカタチといったもの、手や、足や、目や口、筋肉や骨格、臓器などといったもののすべて。

いや、それだけではない。それらが作用し合い、それらが現実のものとして存在し活動している、自分自身の感覚や感じ方、気分や情緒、好みや、それにしぐさや立居振舞いの様式、感情の持ち方やその表し方といったものなど等・・・。そうしたことのすべてが、自分にとって新たな意味と理由を持ち始めるのである。精神は自分の存在を意識し始めたのである。

自分というのが、なにかそれまでとは別のものになっているのである。新たな意味づけと理由の下に、自分自身の肉体というもののカタチや機能、そしてその感覚や感じ方といったものが、全然別の意味を持つに至っているのである。いままでとは、どこか違う自分というのを意識し始めている。

それは、目に見える肉体のカタチだけでなく、それが持つ現実の存在の仕方、存在の理由といったものまでが、それまでとは別の異質なものになってしまっているのである。

感情の持ち方、情緒や気分、性格や感じ方といったものがそうである。そうしたことのすべて、そうしたことの肉体と感覚と精神が一つに統合されて、一つの個性、あるいは一つの異質で固有な、新たな民族の特徴といったものを生み出しているのである。単に表面的な型式が違うというのではなくて、それを成り立たせている原理といったものが「異質」だということなのである。

戻る。             続く。


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