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感覚そのものが、記号としてのみ、また、記号を通してのみ、人間に感じられているのである。そして、これが観念の世界で映像に変換され、そしてさらにイメージや象徴として意識されているのである。 しかしまた、そうした無意識の感覚の蓄積がまた、それだけで、自分の中の意識の背景となっていて、そしてそれ自身で「感じ方」といったものの固有の傾向とクセといったものを作りだしている。思い込みや主観、気まぐれ、情緒といったものがそうである。 もしかすると、このような印象としての象徴が、意識の中でイメージや映像を生み出しているのかも知れない。あるいは、自分のなかで堆積されて来た無意識の、バラバラな、錯綜した偶然の印象の蓄積された世界が背景となっていて、それがその都度、その中で連絡し合い、偶然に関連付けられて、一つの「象徴」を生み出しているのかも知れない。 どちらにしても、それは現実とは別のものであって、外の世界が、内なる意識の世界で映像として変換されたのが、心理的な感じ方や感性となっているのである。 だからまた、それは個性なのであって、だれもが同じものを見ていても、それを見る者によって異なる様々な意味と内容、側面や方向性を持たざるを得ないのである。 |
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