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そして、共有し得るものだからこそ、お互いが理解できるのであって、これを「抽象化」と言っているのであり、そしてまた、これが人間的な感覚となっているのである。 そうやって人間は、自分自身と外の世界とを区別して感じているのである。そしてまた、自分自身の感覚そのものをも対象化しているのである。 そうした意味で、人間は外の世界を何らかの象徴化された記号、ないし、印象として見ているのであって、現実のすべて、あるいは、現実そのものを見ているというワケではないのである。 人間が見て感じているのは、現実の一部分であり、しかもその限られた一部分の側面だけであり、さらに、その見え方や感じ方においても、その仕方、つまり、その記号の羅列と、その羅列の形式の認識の仕方によって限定されていて、制約され、規制され続けているのである。 |
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