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しかしまた、だからこそ、それはより純粋で、直接的で、透明で、永遠で、そうした普遍性を持つものとして私たちに迫ってくるのである。迫って来ることが出来るのである。 自分自身の中にある、根源的な欲望や祈り、救いといったものが、そのままむきだしになっていて、また、それすらも透過して、衝動といったものが衝動それのみとして、自分がいま生きている現実や心情、立場や心の拠り所といったもの、それらすべてを全く無視して純粋で根源的な衝動だけが、それだけで、心の中からおどり出て来ているのである。 だからそれは、これこそが真実であるにもかかわらず、それでもやはり妄想なのであって、妄想にしかなり得ないのである。妄想というカタチで現れてくるしかないものなのである。 しかしまた、、この「妄想」はカタチを必要とし、カタチなくしては、移り行く感情の意識されることのない流れに過ぎないのであって、それが記憶として残るには、やはり何らかのカタチが必要なのであって、それが論理でありイメージであり、あるいは、妄想という形式をとった感情や心情の表現なのである。 |
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