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しかしまた、そうした衝動といったものが大事なこととして、後の世に伝えられ保存されて行くためには、それはやはり、記号化されなければならないのである。 思い出や、記憶の中の形象や、出来事や、物語りといったものは、直接後世に伝えられることがないのである。伝えようがないのである。言葉や文字として、あるいは、立居振舞いのしぐさや、身振り素振りで伝えてゆくしかないのである。そうして、古文書や神話、あるいは、叙事詩のような身体の動きや、歌や舞いによって保存され伝えられてきたのである。 しかし、そうしたことは、意識された思考の働きに基づくものであって、まず、物語や出来事があって、それが思考の中で形象化し記号化されて、その後に、それがカタチになったものである。 従って、それは衝動そのものとは違う。それは、衝動が意識の中で記号化されて、これを現実のカタチとして意識的に表現したものなのである。だからそれは、衝動そのものとは違うものなのである。まず、衝動があって、その後にそれが現実のカタチとして表現されたのであって、衝動そのものとはやはり別のものなのである。 それでは、無意識の衝動とはいったい何のことで、 それはいったいどこにあるのか? 実は、それこそが正に自分自身のことを言っているのである。意識される以前の、無意識の根源的な自分自身のことを言っているのである。それは自分自身の存在の必然性であり、自己の歴史的・内的同一性なのである。 |
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