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だから、人間から見る外の現実の景色といったものは、そうした電気信号の基になる「記号」の羅列した模様の世界と言える。いったい、現実というのがどのようなものであれ、それとかかわりなく、人間はこのような記号ないし信号としてしか、「感じる」ということが出来ないのである。それは人間の感覚器官の制約であり、限界なのである。 しかし、実際には、そうした外の世界が現実に色やカタチのイメージとして見えているし、見えていなければならないのである。それが感覚器官の出力側、すなわち脳の働きなのであって、入力側からの記号が、映像に変換された観念の世界で映し出されているのである。 ということは、主観や思い込み、偏見や気まぐれ、歪曲やデッチ上げが混じるということである。当初、感覚器官の物理的・生物的映像として入ってきたものが、生理的・情緒的映像に変換され、そしてさらに意図的・観念的映像に仕立て上げられて行くのである。 |
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