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7、方向性。



それは、感覚といったものが、それ自体で機能する時間的変化のありさまとして保存されてきたのである。感覚自体が持つ、その機能や様式から導き出される指向性や傾向、必然性といったものとして保存され、記憶されてきたのである。

そしてまた、そうしたことが自分自身にも意識され、めざめてもくるのである。なんの変わりばえのしない日々の、日常の当り前の風景の中で、何かの偶然の重なりや繋(つな)がりのハズミやキッカケで、それが見えてもくるし、理解もされてくるのである。それ自体が持つ本質的な傾向、指向性としてそうなのである。

現実というのが、前後の脈絡を欠いた何かの暗示や示唆、あるいは象徴の羅列した模様として見えてくるのである。あるいは、そうしたことが自分自身に求められていて、そして、そうやって自分の意味といったものを探し求めているのである。

そうするしかないのである。自分は無意味な存在であってはならないのである。自分が生きているという確かな実感と証明が必要なのである。

そうしたことが、いやがうえにも現実というのを、そこから何かが暗示され予感されるものとして見えてくるのである。そのように感じられてもくるし、また、そう感じられなければならないのである。

戻る。            続く。


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