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9、符号。



このような自分の中にある、言い知れぬ得体の知れない暗示や予感といったものを、別の言い方で表現すると、

例えば、視覚が感じる色やカタチの区別といったものは、実は、祖先が私たちに伝えようとした、自らの存在の仕方なのである。自分の外にある世界というのが、色やカタチを通して見えて来るというのは、そうやって祖先の記憶というのを私たちに伝えているのである。私たちの感覚の感じ方を通して、かつての祖先の記憶を映し出しているのである。

祖先の「記憶」は、現実の出来事を伝えているのではなくて、伝えることなど出来るはずもなく、従って、現実から切断された感覚そのものの「感じ方」として、肉体の構造や仕組みとして私たちに残してきたのである。

何かを感じるというのはこのことなのである。外の世界に対してだけでなく、それを見ている自分自身の感覚そのものに対して、言い知れぬ不思議な違和感みたいなものを感じてしまうのである。自分の感覚でないように思えてくるのである。自分が求めもしないものを、不具合やノイズとして映しだしてくるのである。

だから、私たちが見ている現実世界の景色といったものは、種としての祖先の記憶といったものが、色やカタチという「記号」として、意識の世界で再現されているのである。そして、それが何かを暗示する符号や合図としてスイッチされてくるのである。

戻る。            続く。


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