index< 日誌< ak春< 「精神の領域」p7/


 
5、根源的なもの。



それらはたいてい、いっしょにセットでやってくる。視覚と聴覚と嗅覚と触覚、さらに、それに内部から反応している体内感覚も加わってくる。それらが一体となって、全体としての一つの「感じ方」というのを作り出しているのである。

にもかかわらず、それらが別々に孤立してやって来るところに、誤解の源(みなもと)がある。スピーカがそうであり、ディスプレイがそうであり、店舗から漂ってくる意図的に作られた人寄せのためのニオイがそうである。

見るもの、聞くもの、触れるもの、それは自分が感じる、自分が生きている証拠なのであるが、そうした感覚が、偽りの作りものの感覚として、おカネで求めやすくなっている。

とっても便利なのであるが、もっとも大事なことがより一層、見えにくくなっている。イヤ、見てはならないように出来ている。それは、おカネで買えないものだから、それに気づくと面白くないのである。

戻る。            続く。



index < 日誌 < ak春< 「精神の領域」p7/