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自分というのが、自分のなかにあって、そこから自分の外へ出て行かなければならない。しかし、それが何で、いったいどこで、何をしようとしているのか、自分でもわからないのである。なぜなら、それは肉体が覚えていて、肉体の都合でやっていることであって、自分が意識してやっていることではないからである。 意識されることのないまま、肉体が自然にそうした方向性をとるのである。だから、それはまた、外の自然と一体になっている。外の自然というものを五感で、自分の肉体と感覚全体で感じていて、そうなるのである。 何かを感じるということが、意識とか思考で感じているのではなくて、感覚自体で、意識されることのないままで感じられていて、同時に肉体が、それに無条件に反応して従っているのである。 そうした意味でそれは、感覚的で、生理的で、情緒的といえる。雰囲気とか、空気とか、フィーリングとでもいったものである。そうした、独特の空気、情緒とでもいったものが春にはある。春にしかないものである。もちろん、そうした固有の雰囲気といったものは、夏にも、秋にも、冬にも、それぞれにあることなのではあるが。 |
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