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5、表現。



ボヤケて消えたもの、ものがボヤケて背景と同じになったもの、また、注視角度の外に出てしまったもの、あるいは、どうでもよい背景といったもの。そうしたことは、見えないもの、見たくないもの、見る必要のないもの、見てはならないもの、見えてはならないもの、などのことであるが、やはりそれも、たとえ必要のないものであっても、やはり、意思的で主観的であるとしか言いようがない。見る本人が、そうした見え方を選んだのだから。

たとえそれが、本人が意図もせず、意識もされていなかったとしても、やはり、そうとしか言いようがないのである。それは、本人自身が願い、のぞんだことだからである。なぜなら、その感じ方の当事者とは、自分以外にいないからである。自分だけが自分に責任を負えるからである。そうした感覚の持ち主は自分であり、それは自分自身の感覚に属することだからである。

それは自分の中にある見え方といったものである。外の世界はなにも変わらないのに、自分の見え方といったものが、ものを見えなくしたり、ボカシたり、あるいは反対に、ハッキリと見えるようにしているのである。

それは、自分の中にある意思とか記憶が、感覚の世界に持ち込まれたものなのである。それは主観的であって、外の世界から持ち込まれたものではなくて、自分の中から、自分の感覚、自分の意思の表現として、外の世界を理解して見ているのである。

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