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そしてこれが自分自身なのであり、自分が生きている場面なのである。他人に支配されて動かされているのではなくて、自分で自分を生きている。これには何かしらの自律的な必然性があって、それに基づいて自分が自分であろうとしているのである。 自己の精神といったものが現実の世界へと出てきている。見える姿となって現れている。自分というのが現実の世界の中であらわに映しだされている。自分で自分を見つめていて、そしてそれを認めようとしているのである。 この見える現実の世界とは、自分のことなのであって、自分で自分を見ているのである。自分で自分の感覚の世界を見ているのである。自分は自分の外の世界を見ているのではない。自分の中で、自分によって映し出された外の世界を見ているのである。それは、あくまでも自分の中での出来事なのである。 |
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