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6、自分はだれなのか。


そうやって精神は自分をたしかめ、認め、理由づけしているのである。たとえば、宗教や芸術における儀式や作法がそうである。そしてこれが無意識の印象と象徴の世界なのである。

そうやって精神は、それが錯覚でも、誤解でも、インチキのでっち上げでも、ウソでも、ペテンでも、そんなことはどうでも良いことなのである。ただそうやって、自分の立場と居場所を確かめているのである。

自分の存在がまわりから認めてもらえれば、ただそれだけでよいのである。自分が誰なのか、自分で知ることが出来ればそれでよいのである。


戻る。                     続く。


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