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客観的な現実の世界に、個人の主観が入る余地などないのである。しかしまた、だからこそ、親子に見られるクセや習性、仕草の同一性といったものは、たとえそれがどんなに似ていても、やはり別のものであると言わざるを得ないのである。 たとえ、それがどんなに似ていても、それを選択し、学習し、自己の生活のパターンの一部としたのは、あくまでも本人がそれをのぞみ、それを選択してきたからなのである。あるいは、そうしてのみ、生きてこれたからなのである。そうせざるを得なかったし、それ以外になかったのである。 しかも、それ以外の「生き方」というのを選択するのを困難にしたのは、親から受け継いだ遺伝の先天的な制約なのであり、また、生活環境の同一性と継続性が、そうせざるを得なかったのである。 |
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