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しかし、理由や原因となる対象(相手)が存在しないのに、どうしてこういうことが起こるのだろうか。なぜならそれは、そうしたことのすべてが、自分自身の孤立した感覚器官の領域で起こっていることだからである。 感覚が、感覚だけで自律した世界の中で、何かを感じ取ろうとしているのである。しかしまた、だからこそ、他人の感覚や感じ方、心情や意識や思考といったものを自分のものとして、自分の感覚や、自分の感じ方を通して知ることが出来るのである。 それを自分のこととして感じることが出来るのである。それが共通の共有された出来事として理解できるのである。先に述べた「システムの同一性」とは、このことなのである。個人個人の様々な感じ方や、感覚といったものが、それらのすべてが同一のシステムの仕組みと原理の下に成り立っていて、そしてそれを基に構成されているのである。 だからこそ、互いに交流も出来るし、感覚や思想を共有することも出来るのである。私たち人間は、このような肉体という現実の、共通の地盤の上に成り立っている、同一の「種」なのである。 |
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