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自分自身の肉体がそれを感じているのである。自分自身が感じている、その感じ方の主体とは、この自分自身の肉体以外にないのである。それは意識もされず、自覚もされない、自分自身の無意識の世界なのである。 感覚というのが意識から離れたところにあって、自律しているのである。そしてこのような感覚の、意識されざる自律した機能やそのパターン、そして神経や生理作用の独自の働きやリズムといったものが、そうした自分自身が経験した過去の出来事を記憶しているのである。 あるいはまた、自分以前の祖先の記憶といったものが、このような自分自身の感覚の感じ方の中に記憶されているのである。それはちょうど、自分自身の身体といったものが、数万数億年に渡る、自分自身の祖先の記憶の結果であるのと同じことなのである。 |
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