index< 日誌 < au錯覚 < 22-93「精神のカタチc」p12 |
そしてこのようにして、自分が自分として存在しているのであって、そしてこれが自分自身の同一性なのであって、自分が自分であることの物的証明であり、その保証ともなっているのである。それは、すなわち、このような自分の無意識の感性や感じ方といったものは、それ自体が自己の同一性なのである。 そしてまた、それを通して、自分が自分であると意識もし、自覚もしているのである。自覚することが出来るのである。そしてこれが、自分が信じるもの、自己の信念や正義といったものの根拠になっているのである。 このような自己の感情といったもの自体が、自分自身の身体内部の営みから来ていて、そしてこれが、自分をしてそう感じさせ、思わせてもいるのである。だからまた、これこそが自分なのであり、自分にはそれしかなく、それだけが、自分が自分であることの証明になっているのである。 |
index< 日誌 < au錯覚 < 22-93「精神のカタチc」p12