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そして、そこから離れたところに自分は存在しないのである。だからまた、どんなことがあっても、そこから離れることが出来ず、また、それを守るためにはどんなことでもするし、また、しなければならないと思えてくるのである。なぜなら、それこそが自分というものだからである。 それはもちろん、イメージや思考としてではなく、より直接的な肉体の生理や神経のパターンや、そのリズムに記憶されているのである。頭ではなく、肉体の営みがそれを記憶してきたのである。ワケもわからず気分が良いとか、気持ちが良いとか悪いなどといったことがそうである。 あるいは鼓動する心臓の振幅や、そのリズム、呼吸の高低長短と強弱といったものがそうである。めまいや吐き気などもそうであるし、そしてこのような自分自身の肉体の異変でもって、何かを感じ取っているのである。 |
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