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6、拘束。



こうしたことが出来るということは、それは私たち人間が他人の喜びや悲しみ、そうした情緒や感情といったものを共有できるということを意味している。また、共有できるからこそ、そうやって喜んだり悲しんだりするのである。

私たちはそれを、自分の肉体という身体自身の感覚でもって、知ることが出来るのである。そしてまた、自分の身体を通してしか、それを知り得ないのである。

そして、自分の身体とは、自分の現実のすがたなのである。それは自分の存在というのが、自分の身体によって拘束されているからであって、そしてまた、それを通してしか人間は何も知り得ない、ということなのである。


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